沖縄県神社庁

天久宮 令和3年 初詣情報

令和3年正月三が日の授与所開所時間は、以下の通りです。
12月31日午前9時から1月1日午前1時
1月1日午前8時から午後8時
1月2日午前8時から午後8時
1月3日午前8時から午後8時
1月4日以降は平常通り午前9時から午後5時
お参りの際はマスク等を着用し、間隔をあけてお並び願います。

天久宮 由緒

 琉球国由来記などによると、お宮の創建は成化年間と伝えられる。(尚圓、尚宣威、尚真王時代、西暦1465~1487)
 往古、銘苅村に銘苅の翁子が閑居していた。あるとき、夕陽の没する頃、天久野に威儀を正した法師を従えた気高い女人が山上より下って来るのに出会った。中腹には小洞窟があり、井戸から水が湧き出て流れている。翁子が法師に女人が何者なるかを尋ねると、法師曰く、自分は山の中腹に住んでいるが、女人は山上の森に住む者で名乗るほどのものではないと答えた。翁子は不思議に思い気をつけていた。あるとき、女人が洞窟に入る時に、中途で消ゆるを見る。翁子は驚き、事の次第を王の臣下に伝えた。伝え聞いた時の王は虚実を試さんと役人に命じて洞窟に向かって香を供えたところ、それが自然に燃えたので、外に社殿を造営して祀った。時に神託あり。我は熊野権現なり。衆生の利益の為に現れたり。かの女人は国家の守護神なり。弁財天である。衆生は神変の加護によりて妄念を解くことができようと、神徳を重んじ国家安全、万民豊楽の基のため、社殿を建立して祀ったという。
 昭和19年の空襲により社殿を焼失。戦後は御嶽形式により奉祀。昭和47年旧暦2月22日本殿を建立。奉鎮祭斎行。本土復帰の昭和47年5月15日宗教法人となる。同日神社本庁に包括される。
※さらに詳しい由緒は下の「天久宮 さらに詳しい由緒」をご覧ください。

御祭神

伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
速玉男尊 (はやたまをのみこと)
事解男尊 (ことさかをのみこと)
境内摂社 
弁財天
境内御嶽
先樋川の辰・龍宮神
泊龍宮神(弁天負泰彦大神)

天久宮 電話番号 FAX番号


電話番号 098-863-3405

FAX番号 098-894-2345



例大祭(天久宮)


4月5日(旧暦)



 住所 地図


天久宮 住所:那覇市泊3丁目19-3


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天久宮 さらに詳しい由緒

 天久宮は、琉球八社と呼ばれた社の一つ。『琉球神道記』(一六〇八年)巻五には、「天久権現」、『琉球国由来記』(一七一三年)巻十一には、「天久山熊野三社大権現」、『琉球国旧記』(一七三一年)巻之七には、「天久山三社」、『球陽』(一七四五年)巻五には、「天久山権現」、同書巻十三・巻二十一には、「天久宮」と記されている。

『琉球神道記』巻五には、次のような縁起が記されている。
 目軽(銘苅)村に目軽翁子という人がいた。この人は、浮世を問題としないでただのんびりとその日暮らしをしていた。ある日の晩、隣村の天久の野に出てたたずんでいた。見ると山の上から気高い女人が、威儀正しい法師を送って下りて来た。山の中腹に小さな洞窟があり、その洞窟には泉があって水が流れており、そこへ行った。またある時は、女人を送って山の上へ登ることもあった。翁子はこれを見て、法師に申し上げた。「どなた様でいらっしゃいますか。女のお方様は、どなたでございましょうか」。法師は、「私は、ただここに住んで居る者。女人は山の上に住むお方。名乗る程の者ではありません」と答えるだけであった。目軽翁子は、それを見る度に奇特の思いをしていた。ある時は、ちゃんと洞窟に入るかと思えば、途中でいつの間にか姿が消えることもあった。この話を王と臣に言上した。そこで国王は、役人らにその真意を確かめる為、洞窟に向かって香を置かせたところ、何もしないのに香に火が付いた。そして、この話は真実だということになり、その後社殿を造営した。「私は熊野権現である。衆生を利益(りやく)する為に現れたのだ。女人は、この国の守護神、弁財天である」との神託があった。この翁子は、ただ人ではない。はじめ泉の辺りで長い髪の毛を一本見つけた。それを頼りに天女に遭った。天女は、翁の家に留まる事およそ三年。そのうちに息子三人をもうけた。その子孫は、今もこの村に残っているとのことである。

 また、『球陽』の外巻として編纂された説話集『遺老説傳』(一七四五年)外附巻には、次のように記されている。
 成化年間、銘苅村に銘苅翁子という者がいた。その人の性格といえば、生まれつき親切で誠実、心は清潔、その上浮世を問題としないでただのんびりとその日暮らしをしていた。ある日の晩、天久野に出てぶらぶら散歩していた。突然一人の女人を見た。出て法師を見送り、山の上より降りて山の中腹に至った。そこには小さな洞窟があり、その洞窟には泉があって外に水が流れていた。また、ある時は法師が女人を送る為、洞窟の中から出てきて山の上まで登った。銘苅翁子が法師に尋ねた。「法師様はどなた様でいらっしゃいますか。女人のお方様は、どなたでございましょうか」。法師は、「私は、ただここに住んでおる者です。あの女人は山森に住むお方です。」と答えた。振り向くとその洞窟の中に入り、姿が見えなくなった。銘苅翁子は、大変驚きかつ喜び、これを朝廷に題奏した。国王はかくてその話を怪異と思われ、特に輔任する臣下にそれが事実かどうかを調べさせた。その臣下が洞窟に向かい、香炉を置いて拝礼したところ、点火もしないのに自然に香が燃え出した。直ぐさま、その真意が判明した。これによってここに神社を創建し、天久宮と名付けられた。また、寺院を建ててその神社を看守し、神應寺と名付けられた。その後、ある人を介して神託があった。「私は権現神である。女人は、弁財天である。今広く衆生を救わん為に出現したのだ」。此れより後、多くの人々があちこちより皆その神社へお詣りし、幸福を願った。その寺院は元々神社の左側に建っていた。そして今の寺院は、元大島倉と呼ばれ、大島・喜界島・徳之島・永良部島・与論島など五島が貢物を琉球王国に納めるとき、その五島より来た船舶を泊津に係留して、交易を行い、貢物を納める所とした。万暦年間、その五島が薩摩藩領となった。これによりその蔵を撤去することとなり、泉崎村の潮音寺をまたこの地に建立し、その神社を看守させた。  創建は、明代の正化年間(寛正六~長享元年・一四六五~一四八七)と伝える(『琉球国由来記』巻十一・『琉球国旧記』巻之七)。大正十一年(一九二二)天久宮を調査した鎌倉芳太郎は、内陣に『』丸い板絵(径三六㎝)の仏画(胡粉下地墨線極彩色)があって、裏に墨書銘があり、一枚は「本宮阿弥陀」、一枚は「新宮薬師如来」で各々に「大明成化十四年戊戌十二月十二日と記されてあり、これは本社創建当時の熊野三所権現の御神体である』鎌倉芳太郎著『沖縄文化の遺宝』一四七頁」とし、「本宮が尚真王即位二年(一四七八)の建立である」と断定した。

 尚豊王五年の御代・寛永二年(天啓五年・一六二五)には、正月元旦及び十五日に法司官一員が三百十一官員を率いて、首里城御庭にて四拝を行った後に、波上山権現・天尊廟・広厳寺・沖山権現・両天妃廟・竜王殿・長寿寺神社・天久山権現・崇元寺・八幡神社・荒神堂・圓覚寺廟に拝謁して国王聖躬万々歳、御子孫御繁栄、国家安泰の御祈願(御参詣)を」し、(御参詣)をし、終えると御庭にて九拝を行う社参が始まった(『琉球国由来記』巻一・『球陽』巻五)。
 『琉球国王家年中行事正月式之内』(年代不詳)によると、社参人数は親方三人・諸奉行・諸役人無役の座敷以下筑登之座敷まで九十三人、諸細工、諸家来赤頭まで五十三人、島尻方十五ヶ間切より一ヶ間切に夫地頭・さばくり・掟より八人づつで百六十二人、総勢三百十一人であった。社参人数は、いずれも守礼門外にて乗馬し、那覇へ下る。波上権現・天尊廟・広厳寺・沖山権現・両天妃廟・竜王殿・長寿寺神社・天久山権現・崇元寺・神徳寺・八幡権現にて各四ツ御拝を行い、首里へ上る。荒神堂にて四ツ御拝を行い、再び登城する。
  また、正月七日には、七日節句が首里城で行われた。これは、国王が下庫理に出御なされ、玉座をお飾りになる御儀式。七社の祝部・内侍が御甕酒を捧げる。祝部は御庭に於いて御拝を行い、御通しを賜る。内侍は御内原にて拝し、美酒酌御料理を賜った(『琉球国由来記』巻一)。

 『琉球国由来記』巻二によると、七社祝部の役割が記されている。正月元旦及び十五日の社参の時、波上宮・沖宮・長寿宮・天久宮・八幡宮の各祝部は、本殿御扉を開け祝詞奏上をした。また正月二日には、波上宮・沖宮に七社の祝部・内侍によって国王聖躬万々歳、御子孫御繁栄国家安泰、五穀豊穣の御祈願をすべく初神楽を捧げた。国王が初日の出に向かう頃、七社祝部・内侍は、立願して御神楽三座を捧げた。二月、長月の御物参りの時、波上宮・沖宮・長寿宮・天久宮・八幡宮に御神楽を捧げた。前々日の夜、戌時に眞壁殿内・儀保殿内にて夜の御崇があり、翌日に百官が衣冠を整えて各所の諸神に詣でた。三月と八月の四度御物参りの時、波上宮・沖宮・長寿宮・天久宮の御神楽を捧げた。四度御物参りは、十四人一組で九隊に分け、各処の神前に詣でて、拝礼を四次行って福を祈る。八月、渡唐衆が順礼の時には、波上宮・沖宮・長寿宮・天久宮・八幡宮の五社の本殿御扉を開けた。
 このように天久宮は、歴代琉球国王の篤い信仰をうけてきた。

 尚貞王三十五年の御代・元禄十六年(康熙四十二年・一七〇三)九月十五日から十月にかけて、天久宮の造営がなされた(『那覇市史 資料篇第一巻七 家譜資料三―武姓家譜(嘉陽家)七世宗備の条』)。その後、天久宮はもともと聖現寺の寺外北方の地に鎮座していたが、尚敬応二十二年の御代・享保十九年(雍上正十二年・一七三四)七月、聖現寺の境内に移建し遷座した(『球陽』巻十三)。東京大学資料編纂所図書室が所蔵する『首里城並諸方絵図間付差図帳』に聖現寺が描かれており、その北方に半分の境内地面積(二十八間×十三間)の天久宮が本殿・拝殿・燈籠二基と共に描かれている。  尚育王十年の御代・弘化元年(道光二十四年・一八四四)毎年、十二月晦日に例年祝部・内侍及び泊村人士は、天久宮に参籠(物忌み)することとなっていた。しかし、聖現寺に止宿しているフランス人(宣教師)に、もし例年通り行なったら必ず妨害されると思い、長寿寺に場所を移し、天久宮を臨んで行った。また、元旦及び十五日の社参も、天久宮についてはフランス人(宣教師)の妨害を恐れ、長寿寺より天久宮を遥拝した(『球陽』巻二十一)。

 御社殿は、縦二間半・横三間の入母屋造・本瓦葺で、八幡宮本殿に類似していたといわれる。元々は識名宮と同様拝殿(縦二間半・横三間半)があった。沖縄県令が内務卿・大蔵卿に進達した「社寺修繕費之儀ニ付伺」にある「明治十八年度 社寺営繕費予算内訳書」には、「金弐拾円 天久宮修繕費」が計上され官費により修繕がなされていた。しかし、明治後期には、旧慣温存措置もなくなり、波上宮・普天間宮を除く他の六社同様、境内は荒廃した。

 沖縄県作成の昭和十八年度予算資料の「沖縄県神社復興ニ要スル経費」によると、昭和二十一年度に天久宮」・沖宮・識名宮の三社を合祀して一社とする計画もあったようである。その後、昭和十八年十月二日に沖縄県知事とり内務大臣に上申された『神社創立計畫案ニ関スル件』における「現在ノ神社調査票」の昇格予定社格は、無各社より村社にする計画であった。そして、それらの計画が実行されぬまま終戦を迎えた。

 前記『神社創立計畫案ニ関スル件』における「沖縄縣神社創立経緯並要旨」によると「ソノ間應急処置トシテ『琉球八社復興奉賛會』ヲ結成シ縣下カラノ寄附ヲ以テ取敢ヘズ社殿ノ形狀ニ複セリ」とある。また、「神社復興費ニ関スル説明」には、仍テ数年來縣民一体トナリテ之ガ復興ヲ念願シ、琉球八社復興奉賛會ヲ設置シ、鋭意之ガ實現ヲナスベク努力セルモ、縣民ノ資力極メテ貧弱ナルト共ニ従來ハ相當ニ獻金ヲ為シ得タル七萬餘ノ海外縣民ヨリノ獻資送金モ大東亜戦下不如意ノ狀態ニアルヲ以テ、此ノ際國庫ノ助成ヲ仰ギ速ニ所期ノ目的ヲ達成セントス」とある。この琉球八社復興奉賛會は、昭和十四年から同十八年頃の間に結成されたようだが、どの様な組織で、どの程度活動したか不明である。ただ昭和十八年(一九四三)六月八日付沖縄新報に「國寶末吉宮愈々御造營」の表題で「琉球八社の一つ首里市、末吉宮は先に拝殿の假修理をなし腐朽甚だしいところやっと面目を一新したが…」とあり、同年八月一日付沖縄新報の「新世紀」の欄に「波上宮を除く他の七社は近年まで荒廃を極め神域は誠に翏々たるものがあったが縣當局の修理工事に依って今日漸く面目を一新したばかりである」とあり、社殿の形狀に復セリ」という沖縄県の文書に符合することから、波上宮を除く琉球七社について何らかの修繕がなされたようである。又一方で、「これに反し他の七社は、昭和十四年度から振興事業の一部として復旧事業に着手されたものの、僅かに八幡宮の柱を直し屋根を葺いたに止まり、その他の社殿の惨状はそのまま放置されてきた」という(『琉球宗教史の研究』)。残念ながら天久宮に関して、どの程度の修繕がなされたかは不明である。
 大東亜戦争による天久宮の神域の戦災状況については、詳しい記録が残されていない為不明。

【戦後の天久宮】
・昭和二十七年(一九五二)四月一日施行の米国民政府布告第一六号により地方自治体が、所在不明になっている神社仏閣の敷地を管理することになった。
・昭和四十七年(一九七二)五月十五日、本土復帰に伴い宗教法人格を取得すると同時に神社本庁と被包括関係を結ぶ。昭和四十八年(一九七三)十二月十八日、沖縄県より規則承認を受く。
・戦前の神社明細帳によると天久宮の境内地は、一、一六三坪(三八三八㎡)あった。昭和四十七年に神社拝殿建立の為、沖縄県に対して原状回復申請をした結果、漸く「真正な登記名義の回復」により昭和五十年十月十七日もとの境内地の半分以下の五〇〇坪(一六五三㎡)が返還された。しかし、四六八㎡については、既に旧沖縄県立水産高等学校(現沖縄県立泊高等学校)のグラウンド敷地として有償貸与しており、沖縄県教育庁施設課より強い要請があり、平成四年八月十四日那覇市泊三丁目一九番八の境内地四六八㎡を分筆し、沖縄県に学校用地として売却した。
・昭和五十年、天久宮復興奉賛会が設立される。
・平成二年八月十六日、平成御大典記念事業として本殿・拝殿・社務所・手水舎・参集所及び駐車場を改築した。
・平成六年五月十五日、鳥居が建立される。

略年表
寛正六~長享元年    創建は明代の成化年間(一四六五~一四八七)と伝える(『琉球国由来記』巻十一・『琉球国旧記』巻之七)。
寛永 二年(一六二五) 正月元旦及び十五日に社参が始まる(『琉球国由来記』巻一・『球陽』巻五)。
元禄一六年 九月一五日 十月にかけて天久宮の造営がなされる(『那覇市史 資料篇第一巻七 家譜資料三―武姓家譜(嘉陽家)七世宗備の条』)。
享保一九年 七月    天久宮を聖現寺の境内に移建(『球陽』巻十三)。
弘化 元年一二月 晦日 例年祝部・内侍及び泊村の人士は、天久宮に参籠することとなっていたが、聖現寺に止宿しているフランス人(宣教師)の妨害を懸念し、長寿寺で行う(『球陽』巻二十)。
弘化 二年元旦及一五日 フランス人(宣教師)の妨害を恐れ、社参を長寿寺より天久宮を遥拝することに変更す(『球陽』巻二十)。
昭和一二年一一月 三日 午後六時頃大音響と共に本殿が逆転倒潰し、逆立ちの状態を呈し、その為に御神体を県立図書館に移した(『琉球宗教史の研究』)。
昭和四二年 六月 六日 天久宮復元期成会が発足し、初代会長に新田宗政が就任。
昭和四二年一一月 五日 御社殿地鎮祭を執行。
昭和四二年一二月一五日 和歌山県熊野三社より御分霊をお招きし、御鎮座祭並びに社殿再建奉祝祭執行。
昭和四七年 五月一五日 本土復帰に伴い、宗教法人格を取得すると同時に神社本庁と被包括関係を結ぶ。
昭和四八年 五月    小祠と鳥居が建立される。
昭和四八年一二月一八日 天久宮は沖縄県より規則承認を受ける。
昭和五〇年一〇月一七日 境内地【那覇市泊三丁目一九番三】(一六五三㎡)の「真正な登記名義の回復」がなされる。
昭和五〇年       天久宮復興奉賛会が設立。
平成 二年 八月一六日 平成御大典記念事業として本殿・拝殿・社務所・手水舎・参集所及び駐車場を改築する。
平成 四年 八月一四日 境内地【那覇市泊三丁目一九番八】四六八㎡を分筆し、同年十一月二十七日、沖縄県に学校用地として売却。
平成 六年 五月一五日 鳥居が建立される。

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