沖縄県神社庁

沖縄神社 由緒

 県民の熱烈な敬神崇祖の念から大正11年12月、県社沖縄神社創立の議が起った。祭神は県民に最も由縁の深い国祖 ・舜天王、又その後四百年間に功績のあった中興の国王・尚圓王及び本県の文化事業に貢献した英主・尚敬王、更に明治維新の 宏謨(こうぼ)によって県民の向うところを定めた最後の国主・尚泰王を主神として、報本反始(ほうほんはんし) の意から舜天王の父君・源爲朝公を配祀することとした。
 敷地は舜天王以来、七百年間本県政治の中心地であった首里城を選定し、大正12年3月31日創立を許可され、 創立奉賛会を組織し、県下一般より募金した。同年9月起工、同14年1月竣工、同15年10月20日県社に昇格した 同11月2日、神饌幣帛料を共進する神社に指定される。戦後有志により再建期成会を結成し、昭和37年より那覇市首里鳥堀町弁ケ嶽小嶽の市有地を賃借し境内地とし、小祠を設け祭祀を続けている。

【沖縄神社の創建】  明治42年(1909年)10月の県社及び町村社建立の議が起こった。明治 43年(1910)4月25日「県社・村社建設理由書」に祭神を正座・舜天王、脇座・源為朝、脇座・尚泰王の三神とし、同年9月10日付内務省神社局に照会したようだが、回答内容は不明。その後、明治45年(1912)2月12日、天皇 御即位50年記念祝典記念として沖縄県兵事課より県社創立案が提出されるも、明治天皇崩御により具体化せず中止とな った。(第1次県社創立事業)

 大正12年(1923)3月31日、御祭神に舜天王・尚圓王・尚敬王・尚泰王を主神にし、源爲朝公を配祀とすることで内務省より沖縄神社創立許可を受け、創立奉賛会が組織された。大正12年9月、沖縄神社御造営に着工し、大正14年(1925)1月に竣工した。4次に亘る県社創立の大事業は、提案から16年を経て、遂に成就した。大正13年(1924)7月、伊東忠太・黒板勝美両氏、文化財調査のため来宮。大正14年4月24日、沖縄神社拝殿(首里城正殿)は、古社寺保存法に基づき特別保護建造物(国宝)に指定された。
 大正15年(1926)2月1日、沖縄神社奉賛会所有の沖縄神社敷地・本殿・拝殿(首里城正殿)・社務所(世誇御殿)・基本財産(現金五千円)を沖縄神社に移管することに決定し、首里市助役・高安玉兎氏に引継された。 同年10月8日、神社敷地として地目組替。10月20日、内務大臣より社格が県社に昇格せられた。(以後10月20日が例祭日となる)
 昭和20年(1945)5月12日、戦火とともに沖縄神社社殿は焼失したと 推定される。沖縄神社周辺一帯は、神社周辺の地下壕にあった旧日本軍沖縄司令部は5月28日南部(摩文仁)に転戦するまで、完膚なきまで米軍の砲火にさらされ壊滅した。

【戦後の沖縄神社】  戦後、昭和25年(1950)5月22日に琉球大学が首里城跡に開学。 昭和27年(1952)4月1日施行の米国民政府布告第16号により、地方自治体が所在者不明になっている神社仏閣の敷地を管理することとなり、沖縄神社境内地は首里市の管理するところとなる。なお、昭和29年(1954)9月1日、首里市は那覇市に吸収合併された。  昭和35年(1960)、首里文化部・首里市会議員・同各町有志による沖縄神社再建の議が起こり、首里城正殿から東方の境内地返還を琉球大学に要請するも拒否された。その理由は当該地を含む周辺地が昭和32年(1957)6月28日、那覇市より琉球大学用地として贈与されており、既に学校として使用されていた為であった。

 昭和36年(1961)(昭和37年2月11日建立説もあり)首里支所長又吉盛弘・首里各自治会長、鳥堀町や汀良町の有志・料亭小川が沖縄神社仮神殿を弁ヶ嶽入口の杜に建立した。
 昭和44年(1969)1月13日、沖縄神社復興期成会の総代・大城朝善は、那覇市と沖縄神社仮神殿境内地として市有地の賃貸借契約を締結した。

御祭神

舜天王
尚圓王
尚敬王
尚泰王
源爲朝公

沖縄神社 電話番号 FAX番号


波上宮社務所

電話番号 098-868-3697(波上宮社務所内)

FAX番号 098-868-4219(波上宮社務所内)



例大祭(沖縄神社)


10月20日 午前11時(弁ヶ嶽・沖縄神社)



 住所 地図


沖縄神社 住所:那覇市首里鳥堀町5

google mapで表示する→ google mapへ



神社一覧

ページのトップへ戻る