世持神社 由緒
沖縄を救い繁栄をもたらした3恩人を沖縄救祖と仰ぎ昭和12年に祀る。
以来、砂糖業界、農林業界、教育界各関係者を中心に世直しと殖産振興の神社として広く崇敬される。「世持(よもち)」とは、沖縄の古語で「豊かなる御世、平和なる御世を支え持つ」との意味。
その後、昭和14年に県内唯一の郷社に列せられたが、戦火によって破壊された。更に立地上の理由で戦後占領米軍が社地への再建造営を禁止したため、移転創立計画中の境内地を失い、昭和27年より那覇市大道にて奉斎。昭和33年、「社団法人世持神社」として琉球政府の認可を受け、昭和47年の祖国復帰にあたっては「宗教法人世持神社」として承認を受け、現在は波上宮の境内地に仮宮を設けて祀られている。
その後、昭和14年に県内唯一の郷社に列せられたが、戦火によって破壊された。更に立地上の理由で戦後占領米軍が社地への再建造営を禁止したため、移転創立計画中の境内地を失い、昭和27年より那覇市大道にて奉斎。昭和33年、「社団法人世持神社」として琉球政府の認可を受け、昭和47年の祖国復帰にあたっては「宗教法人世持神社」として承認を受け、現在は波上宮の境内地に仮宮を設けて祀られている。
御祭神
具志頭文若命(蔡温)
野国総管命
儀間眞常命
野国総管命
儀間眞常命
御祭神三恩人の功績
三恩人の多岐にわたる功績については、広く知られているところだが、まず野国総管については、中国から「甘藷(イモ)」を導入したことがあげられる。一六〇五年(万暦三十三・中国暦)、進貢船で帰国する際、鉢植えにして持ち帰り、故郷の北谷間切野国村(現嘉手納町)や野里村で栽培したといわれている。毎年台風が襲来し、農作物に甚大な被害の出る沖縄にとって、地中で生育し、台風の被害の少ない「イモ」の導入は、人々にとって大きな福音だったといえるだろう。
次に儀間真常の功績については、イモ作の普及、製糖法の導入普及、木綿織りの導入普及があげられる。野国総管からイモを譲り受けて国中に普及させた。一六二三年(天啓三)には領地の真和志間切儀間村の村人を中国に送って製糖法を学ばせ、同村から順次各地に普及させた。また一六〇九年(万暦三十七)に島津侵入を受けて尚寧王が鹿児島へ連行された際には、お供として鹿児島に行き、そこで木綿に着目し、帰国にあたって種子を持ち帰って栽培、その後木綿布を冬の防寒用の衣類として普及させた。
また、蔡温は王府時代の沖縄を代表する大政治家で、四十年間も三司官の要職に就いていた。この間、中・北部の植林などの林政、羽地大川を始めとする大小数十の河川の改修及びそれを通しての漁業の振興、更に検地から耕地の手入れや農民の心構えなど、広く農政について、多岐にわたる施策を行った。蔡温の施策は、その後長く沖縄の農業、林業の指針となった。
このように、野国総管、儀間真常によって導入普及された「イモ」は、その後長く沖縄の人々の主食と成り、儀間真常の導入した製糖法は沖縄糖業の基礎となり、沖縄第一の換金作物・商品として王府財政を支え、県財政を支え続け、現在に及んでいる。蔡温の農政・林政は、野国、儀間の仕事をうけて、それを確立し、発展させたといえるだろう。
次に儀間真常の功績については、イモ作の普及、製糖法の導入普及、木綿織りの導入普及があげられる。野国総管からイモを譲り受けて国中に普及させた。一六二三年(天啓三)には領地の真和志間切儀間村の村人を中国に送って製糖法を学ばせ、同村から順次各地に普及させた。また一六〇九年(万暦三十七)に島津侵入を受けて尚寧王が鹿児島へ連行された際には、お供として鹿児島に行き、そこで木綿に着目し、帰国にあたって種子を持ち帰って栽培、その後木綿布を冬の防寒用の衣類として普及させた。
また、蔡温は王府時代の沖縄を代表する大政治家で、四十年間も三司官の要職に就いていた。この間、中・北部の植林などの林政、羽地大川を始めとする大小数十の河川の改修及びそれを通しての漁業の振興、更に検地から耕地の手入れや農民の心構えなど、広く農政について、多岐にわたる施策を行った。蔡温の施策は、その後長く沖縄の農業、林業の指針となった。
このように、野国総管、儀間真常によって導入普及された「イモ」は、その後長く沖縄の人々の主食と成り、儀間真常の導入した製糖法は沖縄糖業の基礎となり、沖縄第一の換金作物・商品として王府財政を支え、県財政を支え続け、現在に及んでいる。蔡温の農政・林政は、野国、儀間の仕事をうけて、それを確立し、発展させたといえるだろう。
世持神社 電話番号 FAX番号
波上宮社務所
電話番号 098-868-3697(波上宮社務所内)
FAX番号 098-868-4219(波上宮社務所内)
例大祭(於 奥武山公園)
11月10日 (於 奥武山公園)
世持神社 所在地 地図
波上宮内 沖縄県那覇市若狭1-25-11